母とともに立った日々の記録(1)

全11回に分け、週1回を目途に掲載していきます。

第1話 わたしの嘉麻市と旧山田市

嘉麻市は福岡県北部の「遠賀川源流のまち」です。馬見山・江川岳・屏山・古処山から連なる「嘉穂アルプス」(2016 年度、九州で2例目となる日本山岳遺産に認定)から田畑、支流の嘉麻川、穂波川河川敷まで、四季を通して花と緑に包まれた、広くて静かなまちです。2006(平成18)年3月、旧山田市と稲築・碓井・嘉穂3町の合併で誕生しました。合併当初の人口は約47,000 人でしたが、現在は35,000 人を下回っています。
市の名称は『日本書紀』に登場する「鎌(かま)に屯倉(大和王権の直轄地)を置く」に由来し、『嘉穂郡誌』には「『日本書紀』に筑紫鎌屯倉が置かれたことが嘉麻郡の起源である」と記され、その由緒ある「嘉麻」を市名としました。
水を張った田んぼにも「嘉穂アルプス」が美しい!
(2023 年5 月20 日、椎木で。有江俊哉さん撮影・提供)
ただ、70 年前までは、地域の様子も光景も全く異なりました。
1市3町がまとまった市域には約11 万人、いまの3倍の人々が暮らす鉱業地帯だったのです。発展のきっかけは「燃える石」の発見です。石炭が「黒ダイヤ」だと分かると、明治時代中頃から終盤にかけて、地元資本に中央の三菱、古河、日鉄など大資本が入り乱れて採掘を始め、市域内の様子は激変、黒ダイヤはカネとヒトを吸い寄せ、まちの風景は緑色からまたたくまに黒色、灰色へ変わりました。「運炭線」として全国へその名を知られた国鉄「筑豊本線」は起点が洞海湾に面した「若松駅」(北九州市)、終点が旧山田市の中心部にあった「上山田駅」で、その開設は、1901(明治34)年でした。
しかし、「石炭から石油へ」というエネルギー革命で、産炭地は行き詰まり、いまは人口激減特別地域、つまり過疎地で、26 年先の2050 年にはさらに1万8千人まで減るのではないか、という、ちょっと怖い推計があるほどです。
産炭地から「元産炭地」へ変わるさなかの1962(昭和37)年、わたしは上山田で生まれました。ですから、記憶の中に、炭鉱に彩られたものはありませんし、草木に覆われだしていたボタ山は崩落の危険があったので遊んだこともありません。家の中には、戦後すぐ当時の山田町議を経て、その後の町長選挙に立候補し敗れた祖父の姿が額縁の中にありました。
古い資料をめくると、旧山田町が1954(昭和29)年4月に市制を施行して、その翌年の市議選(定数30)で、女性が2人当選していました。4年後にも1人。わたしの父が初めて挑戦した1963(昭和38)年にも同じ女性が1人当選。父の2期
目の市議選= 1967(昭和42)年=で定数が4減ったときも女性が2人当選していました。ですが、定数がさらに3減った1975(昭和50)年からの4年間を最後に女性市議は、旧山田市から消えていました。
社会全体にまだまだ男尊女卑がはびこり、「政(まつりごと)に女は口を出すんじゃない」と公然と男性たちが叫んでいたころだったので……と、受け止めがちですが、昭和20、30、40年代の女性議席をどう見ればいいのでしょうか。
このたび、あちこち聞いて回ってみると――炭鉱でも坑内はともかく坑外では選炭から総務・福利厚生・病院などさまざまな分野で女性も活躍し頑張っていました。ですから、労働組合には「婦人部」があったそうです。さらに炭鉱社宅で夫の厳しい労働を支えていた妻たちも「炭鉱主婦連絡協議会」(略称=炭婦協)を結成し、「ヤマ(炭鉱の通称)によっては組合と炭婦協は『車の両輪』」と言われるほど強かった」と聞きました。
戦後の市民運動・労働運動・学生運動で愛唱歌となった『がんばろう』の作詞者、森田ヤエ子さん(1927 - 2004 年)は上山田にお住まいで、本人も炭鉱で働かれていました。全国各地で口ずさまれ、みんなを励ましてきた がんばろう つきあげる空に くろがねの男のこぶしがある 燃えあがる女の……も生まれるべくして生まれたと言えるのではないでしょうか。
旧山田市では女性も一人の住民として尊重されていた、いまの言葉でいう「リスペクトされていた」部分もあったのだなぁ、と、勉強不足を恥じながら、認識を改めています。幼かったわたしが聞いた「さまざまな立場の意見や声を結集しなければ衰退していくまちは変えられない」と女性市議の必要性を語り合っていた父や支援者の方々の言葉が、確かに耳に残っています。地域崩壊への危機感が充満していた市議会で奮闘された女性議員のみなさんに一歩でも近づく努力を怠らないつもりでいます。