母とともに立った日々の記録(3)
全11回に分け、週1回を目途に掲載していきます。
第3話 母からもらった「地盤」
もし、母が元気であったなら、わたしは「市議選に出よう」とは思わなかった気がします。父の選挙で繰り返し味わった苦労、心配を、もう、かけたくなかったからです。そんなわたしに嘉麻市の「第3次男女共同参画社会基本計画」を策定する仕事が回ってきて、何か新しいヒントが得られないかと、2020(令和2)年4月、「福岡・女性議員を増やす会」主催の政治スクールに受講を申し込みました。選挙のイロハだけでなく、有権者へのアピール方法、県議会一般質問の傍聴なども学習プログラムに盛り込まれ、とても興味深く受講しました。
この年の9月でした。猛烈な台風10 号が襲来し、避難所運営を担いました。ですが、指定避難所であるにもかかわらず、女性トイレに洋式がなく、高齢女性への対応に大変苦慮しました。避難した女性の多くから「あなた、(上の人たちに)きちんと声を届けてよ」と強く要望され、災害対策本部等へ改善を訴えたものの、何も実現できませんでした。つくづく行政職員の限界を感じ、「やはり、女性の声は当事者である女性の議員が伝え、提言しなければならないのではないのか。自分は逃げていないか」という、使命感のようなものがわたしを突き動かしだしました。
30 年前になります。わたしは隣の飯塚市が催した「女性大学」に参加しました。その受講生の有志が「さざなみ会」(ジェンダー平等を推進する会)を立ち上げ、入会しました。当時の世話人だった長寿の女性は、いまも何かと気遣ってくださり、人生の「相談役」のような存在です。2021(令和3)年末、その方に「退職したら、(市議選に)立ちなさいよ」と促されました。同じころ、旧山田市域の男性議員から「次は出ない。自身の地盤を引き継いでもらえたらうれしい」と相談がありました。祖父や両親のことを知っている旧山田市の住民の方々や、男女共同参画推進を望む市民団体、職場の同僚からも要望されました。
みなさんたちの「しがらみのない女性がいい」「男も女もない。あんたたちの時代だよ」という声には勇気をもらいました。「そうか。もう、新しい扉は開いているのだ。だったら、記憶を失いつつある母と一緒に立ってみよう」と決意して、2022(令和4)年3月、市役所を定年退職しました。退職前に防災士の資格を取得していたので、再任用では男女共同参画推進課の女性相談員と防災対策課勤務の併任辞令をもらいました。
まわりに市政挑戦の意思を伝えると、それまで消極的だった親戚の口から次々に「それがよか。(単身のあんたに)いろいろ背負わせるのは酷なので、言えなかったとよ」「久美子さん(母)には言うたかね。聞かせたら喜びなさるやろね」と激励されました。
それだけでは、ありませんでした。「あなたのお母さんには大変お世話になって」とあちこちで告げられ、涙を流される方もおられて、本当に驚きでした。母は父が亡くなった後も、父の選挙でお世話になった方々への日々のお付き合いを、認知症発症の直前まで、ずーっと続けていたのです。この母の行いが、いま「強力な後ろ盾」になっ
て存在していることに気づくと、責任の重さとともに、「当選」の2文字が義務のように感じられてきました。
以上が、わが家の歩みと立候補するまでの「ありのまま」です。ですから、この状況を他人の目でとらえたら、わたしは半分くらい「世襲候補⇒世襲議員」と言わなければなりません。
話がちょっとばかり開票結果まで進みますが、わたしが身の丈をずいぶんと上回った票を得たのは、やはり「母の守ってきた(父の)地盤」があり、かつての支持者のみなさんが投票してくださったと見るべきでしょう。
それが何割を占めるのかはまったく分かりません。でも、「まぼろしの地盤」「過去の話」と思っていたものが、間違いなく母のおかげで実在していたのです。ですから「両親の七光り」に包まれて、まだまだ甘い選挙活動をしたのかもしれません。
「だとすれば、なおさら、地盤にお住まいの方たちの理解と協力を得ながら、一日も早く、複数の女性議員当選を実現せねば」という気持ちも湧いて来るのです。